困難はたすけあいの契機

一人残らず陽気ぐらしをする最大の要件は、たすけあいしかないと思う。

<極楽>とは、辞書によれば、「何の苦患もない安楽な世界」とあるが、それは親神様がお望みになる<陽気ぐらし>とは異質なものです。

親神様は、困難のない世界をお望みなのではなく、困難があっても、それをたすけ合って克服する世の姿こそをお望みなのでしょう。その意味では、もしかすると困っている人や苦しんでいる人の存在は、私たちにたすけあいの心を育み、たすけあいを実践する契機として与えられているのではないかと思うときがあります。

あまりにも私たちが自己中心的になっているから、そうするとむしろ陽気ぐらしを遠のかせてしまうから。神が、人間のあるべき姿にするべく、世の中を復原するしくみを用意してくれているように思えてならないのです。

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そんなことをしていたら病気になる

「未だ病気ではないが、近い将来発病する可能性が高い、危なっかしい健康状態」を「未病」というのだそうです。発症前に気づき、対策を講じて、予防止しようということでしょう。
 しかし、生活習慣を改めたり、衛生状態を改善したり未病状態を脱するように努めるのは、大切ですが、それだけでは十分とは言えません。

病を引き起す心遣いがあるのです。
 今は元気そうでもほこりまみれの自己中心的な生き方をしていたのでは、やがては病気にもなる(=未病)ということです。例えば、「百歳万歳」というテレビ番組に登場する人達は、例外なく温厚で、周りの人のことを思いやる心を持っているように感じます。また、働き者で、周囲から尊敬され、大切にされている様子が伝わってきます。これは逆に言うと、自己中心的な人はそんなに長生き出来ないということになるのかも知れません。さらに、病気になりにくいというだけでなく、事情、トラブルが起きにくくなるということです。

病気も辛いものですが、夫婦、家族をはじめ身近な人達との不和、争いほど惨めなものはありません。
 ほこりという自分中心の心遣いを絶えずふり返り、払い続けることは、健康と円満な家庭の基本です。

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時代を超えてもさらに真実を増すこと

どんな時代に生かせて頂いても、今ひとつ分からないこと。自分って一体何なんだ、何者なんだ、どう生きていけばいいんだ。

ここまで突き詰めて考えない時は、自分を分からないままにどうかすると過大評価しやすい、なぜなら自分はかわいいですから。だから、なんで俺がこんなことをしなくちゃならないんだ、なんで私はこんな夫と人生過ごさなくちゃならないの、こんな愚痴や不足がでる時は、自分を自分で過大評価しているからの言葉でしょう。逆に、俺は何やっても駄目なやつや、人はどんどん幸せになっていくのになぜ私は運命から見放されているんだ、なんて嘆くときは、自分を過小評価しているときでしょうか?

本当の自分の等身大を見ることは客観的に難しいものです。しかし、等身大に見る客観的な定規がありました。でもこれまで誰もそれを見ようとはしなかったし、軽んじてきました。それがいんねんです。いんねんという定規は、感情を交えずに、時には冷徹に、自分自身の姿を突きつけます。なぜなら自分自身が蒔いてきた心の種だからです。

いんねんによる縁の組み合わせが、まずは自分が何者であるかを等身大で見る定規のひとつだと思います。それが、まず親子、生まれたときに選べないものこそ、自分自身にかかわる魂生き通しの<かりもの・借り物>の世界のきまりなのではないかとこの頃思います。

それだけでは宿命論に終わってしまうのがおちです。この教えは陽気暮らしの元のいんねんに向かって、新しい救いの道が用意されています。

かつて日本史が専門である笠原一男東大教授が「天理教の教えには、あらゆる問題に対する引き出しが用意されている」と感嘆されたそうです。

時代がそのものの試金石になることがあります。時代を超えても古びるどころか、一層意義を増し、普遍性を備えた教えに、今日の時代が抱える諸問題を克服する手がかりを見つけることが出来ます。

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透明な存在?

いつぞや幼い子供の命を残酷な形で奪った少年の供述の中に<僕は透明な存在だった>とありました。その言葉に深い悲しみと同情を禁じえませんでした。

さらにびっくりしたことには、その供述に対して多くの青少年が共鳴したことです。僕もそうだ、家の中にいても、学校でも僕がいたっていなくったってなんともない・・と。

これまで子供をめぐる環境が悪化しているんだということを肌で感じた記憶があります。

何が原因か、何が悪いかは評論家に任せます。

原因や犯人を捜すことも大切ですが、まず今、ここで何からどう生きていくかが見えてこなくてはならないでしょう。人間は、自分のことだけをしていると生き方に充実したものをなくすように感じます。

自分の得になることばかりの歩き方には、気がついてみると実りがあるようでたいしたものでもない、満たされない寂しさを感じます。

人は自分以外の人あってこそ人になれるので、他人のために何かをする、他人の困っているところを手助けするという無償の働きにこそ、自分の生き方の命の躍動を感じる存在に作られているようです。

人たすけてわが身が立っていく、人に尽くす心がわが身が生きている味わいなのかもしれません。味の出るような心の砕き方が、お互い透明な存在から<なくてはならない存在>になる一つの道でしょうか。

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席を譲らないのも優しさ?

人間関係が希薄になったと言われてますが、優しさという言葉にもそれが入り込んでいることに驚きました。
 例えば、バスの中で老人に席を譲ろうと思うが、もしその老人が、自分のことをそんな年寄りだと感じてなかったら、年寄り扱いされたことで気を悪くするかもしれない、だから、その人に席を譲らないのは、むしろその人への「優しさ」なのだと言うのです。
 以前は、相手の気持ちに思いやり、積極的に心を向けることが優しさでした。相手の気持ちに「立ち入る」形で距離を縮めたのです。しかし、若い世代では、むしろ相手の心中に「立ち入らない」、相手との距離を維持しようとするのが「優しさ」というのです。

この新しい「優しさ」の特徴は、「優しさ」を向けているつもりの当人は、相手には積極的に何も働きかけないことです。多少は「何かした方がいいのではないか」という思いが生じても押し殺してしまうのです。
 こんな優しさを当然とする社会では、逆に、本当に困っている時、なかなか「助けてほしい」と言えなくなりそうです。手を貸して欲しい、相談にのって欲しいと思っている人が、そのきっかけを失いそうな冷酷さもあるような気がします。

「やさしい心になりなされや。人をたすけなされや。」は、社会のあらゆるレベルで、どんな状況に陥っても治め、かつ活力を生み出していく人間関係の真理。やさしい心は、むごい心の反対、人の難儀を見ていられない、人にたすかってもらいたいという誠の心です。

また、人間は、親神を親と仰ぐ子供、お互いは兄弟姉妹、他人というは更に無い、とも。おせっかいなようでも、困っていないかしらと、声をかけ、手を差し伸べる、広い意味で兄弟姉妹の心でありたいものです。

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他人に迷惑をかけない人間になってほしいという親が、かえって迷惑をかける子供を育てる?!これいかに?

 「どういうお子さんに育ってほしいですか」と尋ねられて、「他人に迷惑をかけない人間になってほしい」と答える親が少なくありません。ちょっと聞くと、成る程と思いますが、他人に迷惑をかけないために家庭でどんなしつけをしているかというと、首をかしげることがあります。
 日本の家庭教育は、世界各国と比較して、「うそをつかないように」「弱い者いじめをしてはならない」などという社会のルールや道徳を教えている親が極端に少なく、友達同士のような親子関係だそうです。<文部省の調べ>
 他人に迷惑をかけないという言葉の裏には、人に迷惑をかけなければ何をしても自由だという思いが見え隠れします。そこには他人も社会も眼中にありません。地域共同体のモラルが崩れ、それにかわるモラルも見出せずに、拠り所を失った社会の行き着いた結果でしょうか。
 世間を騒がせているトラブルの殆どが、自分のことしか考えない身勝手な動機から引き起こされています、それは、なぜなら、普遍的なモラルを持たない人間の関心は、ただたんに自分個人と家族だけに向かわざるを得ないからです。

住んでいるところや時代が変わろうとも、変わらない普遍的なモラルとは、人間の存在の目的まで遡って考える必要があります。
親神が人間を創られる時、「人間に陽気ぐらしをさせて、共に楽しみたい」と思われたこの創造主の思いからこそ普遍的なモラルが引き出されましょう。即ち、普遍的モラルとは、周りの人々と助け合って陽気ぐらしを作り出すということです。人だすけのできる人間に育てるということが、家庭での子育ての究極の課題です。

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熱のある地球を救う地救処方箋

私達は、身体に変調があると、まず体温を測り、熱があるかどうか調べます。体温は平常は36・5度前後に保たれ、熱の有無で病気かどうか見当がつきます。これに則して言えば、地球の気温が急激に上昇していることは、地球が病んでいる徴ではないでしょうか。地球が温暖化という病になると、その影響はまず水に現れます。極地の氷が溶けて海水面が上昇し、沿岸部が水没する、水分の蒸発が盛んになり、渇水化、砂漠化が進む地域がある一方で、集中豪雨が増加。また、海水温の上昇は台風、ハリケーンの大型化、多発を招くというように。
 人間の体温もそうですが、地球の温度も水と火のバランスの上にこそ恒常的な営みができるのです。近代文明は、火の文明と言われるように内燃機関の発達が原動力です。それは、二酸化炭素の放出の増加を伴います。
 火が冷たい水によってコントロールされ、水は熱い火によって、コントロールされ、お互いにほどよいぬくみと水気になって命を潤す、水と火の五分五分の働きこそが地球を健康に保つのです。火の文明は少なからず欲望という熱情をバネに発展するものですが、その意味では、火の文明の暴走をコントロールするのは、慎みという理性ではないでしょうか。

自然は神の身体である、人間は神の身体のふところ住まいをしていると教えられます。ふところ住まいをさせて頂いている人間は、その自然の法則に逆らって傲慢な生き方をすることはできません。

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傷つくリスクを背負わなければいつも受身

不登校に悩む家族の相談を受けました。

自分を無条件で受け入れてくれる家族から、学校にせよ、職場にせよ、他人からなる集団に入っていくには壁があります。

自分から働きかけることをしなければ、人間関係を結ぶことが出来ません。その働きかけがいつもすんなりと受け入れられるとは限りません、誤解あり、衝突あり、それを恐れていては、集団内で孤立し、居場所を見つけることが出来ません。

してもらうばかりの子供は、不登校やひきこもりになりやすいのではと思いました。不登校の娘さんがおばあさんの世話をすることをきっかけに人との触れあいの暖かさを知り、外に出られるようになったという話を聞いたこともあります。こちらから与えることによって人の役に立つ、必要とされている自己肯定感を得たのでしょう。<人をたすけてこそ、はじめて我が身としてたすかっていく>のです。人が我が身を成り立たせてくれる、それが世の中のしくみなのでしょう。

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人間の命は陽気ぐらしをすることによって始めて全うされる

ある地球科学者は言います。「約百年前に天理教の教祖は『生き物はすべて兄弟だ』と教えた。当時その言葉に耳を貸す生物学者は皆無だったが、今になってみると、学者より宗教家のほうがはるかに深く生命の本質を捉えていた」と。
地球が誕生して、海ができ単細胞生物が誕生、その一種類が現在の生き物の共通の祖先となったことは、今では科学の常識。地球上の五千万種の生物はすべて四十億年の歴史を分かち合ってきた命の兄弟です。
神は、徐々に人間に陽気ぐらしができる環境づくりをされました。そして、地球が最も美しくなった段階で出現した生き物が人間でした。それなのに、人間に陽気ぐらしをさせて、その楽しみを共に分かち合いたいとの創造主の思いから、だんだん遠のくのは何故でしょう?

人間は何のために、誰によって、いつ、どこで、どのように創られたか、今まで明示されて来ませんでしたし、私達も知りませんでした。元、根本を示して、真にたすかる道を教えられたところに天理教の特質があります 。先ずは、今さえ良ければいい、我さえ良ければいいの自分中心の考え方の偏りから正していきませんか。心を親なる神の思い、自然の理合いに照らして、人間は皆兄弟、兄弟同士たすけあう生き方を少しづつ実践したいものです。

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日本の教育は 命の尊さを本当には説けない

近頃、子供が絡んだ血なまぐさい事件が増え、教師は、子供達に命の尊さを教えなければならないと言われます。しかし、悲しいかな、宗教性を排除した日本教育ではそれが説けないのです。日本の教育の矛盾が至る所で噴出しています。
 命の問題を単に、科学の立場から説けば、アメーバのようなものから次第に高等な生物へと進化を遂げて今日の人間に到達したということになるでしょう。それならそこらへんの生き物、例えばゴキブリと大して変わりないということにもなってしまいます。となれば、人間の命が尊いとするのは人間の勝手だということにもなります。人間を偶然の産物とする進化論や唯物論では、絶対、命の尊厳は説けないのです。
 人間がなぜ誕生したのか、なぜ創造されたのか、その目標に基づく人間の価値観からこそ、命の尊厳を語ることができるのではないでしょうか。

『人をたすける心は真の誠一つの理でたすける理がたすかる』という一見、人に向かう「たすける」という他動詞の行為が、実は自動詞の「たすかる」という不思議な力を生んでいくという真理は、共倒れや自滅に陥りやすい生存競争をはるかに超えた価値観だと思うのです。この「人をたすける」精神こそが、共倒れや自滅ではない、互い助け合いの繋がりを発現させていく力です。さらに、 人間の命が存在する目的、『陽気ぐらし』をともに楽しむための大切な日々の実践でもあるのです。

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«親の心子知らず?! いやいや親の心子が知らしてくれる