透明な存在?

いつぞや幼い子供の命を残酷な形で奪った少年の供述の中に<僕は透明な存在だった>とありました。その言葉に深い悲しみと同情を禁じえませんでした。

さらにびっくりしたことには、その供述に対して多くの青少年が共鳴したことです。僕もそうだ、家の中にいても、学校でも僕がいたっていなくったってなんともない・・と。

これまで子供をめぐる環境が悪化しているんだということを肌で感じた記憶があります。

何が原因か、何が悪いかは評論家に任せます。

原因や犯人を捜すことも大切ですが、まず今、ここで何からどう生きていくかが見えてこなくてはならないでしょう。人間は、自分のことだけをしていると生き方に充実したものをなくすように感じます。

自分の得になることばかりの歩き方には、気がついてみると実りがあるようでたいしたものでもない、満たされない寂しさを感じます。

人は自分以外の人あってこそ人になれるので、他人のために何かをする、他人の困っているところを手助けするという無償の働きにこそ、自分の生き方の命の躍動を感じる存在に作られているようです。

人たすけてわが身が立っていく、人に尽くす心がわが身が生きている味わいなのかもしれません。味の出るような心の砕き方が、お互い透明な存在から<なくてはならない存在>になる一つの道でしょうか。

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人間の命は陽気ぐらしをすることによって始めて全うされる

ある地球科学者は言います。「約百年前に天理教の教祖は『生き物はすべて兄弟だ』と教えた。当時その言葉に耳を貸す生物学者は皆無だったが、今になってみると、学者より宗教家のほうがはるかに深く生命の本質を捉えていた」と。
地球が誕生して、海ができ単細胞生物が誕生、その一種類が現在の生き物の共通の祖先となったことは、今では科学の常識。地球上の五千万種の生物はすべて四十億年の歴史を分かち合ってきた命の兄弟です。
神は、徐々に人間に陽気ぐらしができる環境づくりをされました。そして、地球が最も美しくなった段階で出現した生き物が人間でした。それなのに、人間に陽気ぐらしをさせて、その楽しみを共に分かち合いたいとの創造主の思いから、だんだん遠のくのは何故でしょう?

人間は何のために、誰によって、いつ、どこで、どのように創られたか、今まで明示されて来ませんでしたし、私達も知りませんでした。元、根本を示して、真にたすかる道を教えられたところに天理教の特質があります 。先ずは、今さえ良ければいい、我さえ良ければいいの自分中心の考え方の偏りから正していきませんか。心を親なる神の思い、自然の理合いに照らして、人間は皆兄弟、兄弟同士たすけあう生き方を少しづつ実践したいものです。

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今どうあるか、どうしたかは二代先を左右する

お母さんの胎内にいる時に女の子には、いずれ卵子となる七百万個もの卵源細胞というものができているそうだ。自分の誕生前に既に次の子孫の元が創られていると言うのである。しかし、生まれる時にそれが四十万個に減り、さらに、成熟した卵子として卵巣から排卵されるのは、一生にわずか四百個程度。つまり一万七千五百個のうちの一個が卵子だと言える。しかも、精子と受精して人間の命として誕生するのは、そのなかのたった数えるだけ。生まれてくること自体奇跡なのだ。 
 こうした途方もない働きをもって人間を創造し、命を守護している存在にとって、命を粗末にし、傷つけあう人間の姿ほど、残念なものはないだろう。さらに、命はもちろん、人間にかかわるものは一切、今このときにでさえも、次の次の世代まで視野に入って、仕組まれているのだ。今していることは自分だけでない、次の代だけではない、孫の代にまで影響するというスパンで生き方を見直さなければと思う。

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時間は、問題を解決してくれない、事態のてこ入れは心を変えること

鍋にお湯を入れ、カエルを放り込むと、びっくりして跳んで出ます。しかし、水の状態からカエルを入れ、徐々に水温を上げていくと、カエルはそのまま跳び出すことなく、遂には煮上がってしまうという話があります。
 命に関わるような深刻な状況も、ゆっくり進行すると気付きにくいものです。あるいは、まだまだ大丈夫と正当化している内に、手遅れになってしまうという寓話です。 
 例えば、家族関係。夫婦でも、親子の間でも、一寸した行き違いを、「これぐらい、これぐらい」と見逃している内に、取り返しのつかない事態に立ち至ってしまうことだってないとは言えません。
 一見何事もない幸せな時ほど、心配りを怠らず、何か気懸かりなことがことがあれば、放っておかないで、気付いたものから行動を起こすことが大切です。そのためにも、自分達のことだけでなく、身の周りの出来事に注意を払うことが欠かせません。そこに、自身では気付きにくい自分達の姿が映し出されているからです。

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地球というかけがいのない不思議な星

地球が誕生して、海ができ単細胞生物が誕生、その一種類が現在の生き物の共通の祖先となったというのは今では科学の常識。地球が一番美しく、環境が整ってきた段階に人間が生まれたことは、偉大な意志と思いがあったのではなかろうか。宇宙と言う、自然と言う、いわばすべての生き物の親というべきもののふところにあるその思いは、地球上が陽気ぐらしをするのを見るのがなによりも楽しみなのだ。地球上の五千万種の生物はすべて四十億年の歴史を分かち合ってきた命の兄弟である。人間の結果を求めるあまり、あるいは利便さを求めるあまり、大きな自然の体系のなかの一部分を人工的に切り崩す生き方は、必ず自然からしっぺがえしが来る。人間はどこまでも自然の一部なのだということを忘れてはならないと思う。

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身体の材料

あるフランスの学者が身体の材料の原価は体重60キロの人で約2000円と計算した。生まれたての赤ちゃんは、3キロとして約100円という。身体の三分の二は水で、32リットル、炭素20キロ、石灰1キロ強、リン800グラム、アンモニア4リットルなど、多数の元素を材料にして作られているそうだ。

どんな偉い人でも美人でも材料にしたらこんなものか!であるが・・・。だから死んだら土に戻ると人がよく言うのは、科学的にも正しかった。自然のもとの元素に戻ると言うことで死んでも無になったのではなく、質量保存の法則に則っている。

しかしだ。お店に行って2000円で人間の材料となる元素を買ってきたところでどう人間を創ろうか?命ある存在を創りだすことは出来ない。人間は、自然の一部を借りてこの世で人間の身体として生き、また自然に返すのだ。

そういえば、人間の身体は小さな宇宙とみなされ、考えてみれば自然の法則と同じ法則が身体にも通用されている。例えば、呼吸は、自然界の小さな風。飲んだり食べたり、排泄したりは、自然界の水が雨になったり、水蒸気で空に上がったりのサイクルと同じで、自然の大きなサイクルのなかに人間の小さなサイクルが包摂されていることで、人間は自然の一部であるとここでも言えると思う。

ここから人間はどう生きていくべきかの方向性が見えてくる。

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