時代を超えてもさらに真実を増すこと

どんな時代に生かせて頂いても、今ひとつ分からないこと。自分って一体何なんだ、何者なんだ、どう生きていけばいいんだ。

ここまで突き詰めて考えない時は、自分を分からないままにどうかすると過大評価しやすい、なぜなら自分はかわいいですから。だから、なんで俺がこんなことをしなくちゃならないんだ、なんで私はこんな夫と人生過ごさなくちゃならないの、こんな愚痴や不足がでる時は、自分を自分で過大評価しているからの言葉でしょう。逆に、俺は何やっても駄目なやつや、人はどんどん幸せになっていくのになぜ私は運命から見放されているんだ、なんて嘆くときは、自分を過小評価しているときでしょうか?

本当の自分の等身大を見ることは客観的に難しいものです。しかし、等身大に見る客観的な定規がありました。でもこれまで誰もそれを見ようとはしなかったし、軽んじてきました。それがいんねんです。いんねんという定規は、感情を交えずに、時には冷徹に、自分自身の姿を突きつけます。なぜなら自分自身が蒔いてきた心の種だからです。

いんねんによる縁の組み合わせが、まずは自分が何者であるかを等身大で見る定規のひとつだと思います。それが、まず親子、生まれたときに選べないものこそ、自分自身にかかわる魂生き通しの<かりもの・借り物>の世界のきまりなのではないかとこの頃思います。

それだけでは宿命論に終わってしまうのがおちです。この教えは陽気暮らしの元のいんねんに向かって、新しい救いの道が用意されています。

かつて日本史が専門である笠原一男東大教授が「天理教の教えには、あらゆる問題に対する引き出しが用意されている」と感嘆されたそうです。

時代がそのものの試金石になることがあります。時代を超えても古びるどころか、一層意義を増し、普遍性を備えた教えに、今日の時代が抱える諸問題を克服する手がかりを見つけることが出来ます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

席を譲らないのも優しさ?

人間関係が希薄になったと言われてますが、優しさという言葉にもそれが入り込んでいることに驚きました。
 例えば、バスの中で老人に席を譲ろうと思うが、もしその老人が、自分のことをそんな年寄りだと感じてなかったら、年寄り扱いされたことで気を悪くするかもしれない、だから、その人に席を譲らないのは、むしろその人への「優しさ」なのだと言うのです。
 以前は、相手の気持ちに思いやり、積極的に心を向けることが優しさでした。相手の気持ちに「立ち入る」形で距離を縮めたのです。しかし、若い世代では、むしろ相手の心中に「立ち入らない」、相手との距離を維持しようとするのが「優しさ」というのです。

この新しい「優しさ」の特徴は、「優しさ」を向けているつもりの当人は、相手には積極的に何も働きかけないことです。多少は「何かした方がいいのではないか」という思いが生じても押し殺してしまうのです。
 こんな優しさを当然とする社会では、逆に、本当に困っている時、なかなか「助けてほしい」と言えなくなりそうです。手を貸して欲しい、相談にのって欲しいと思っている人が、そのきっかけを失いそうな冷酷さもあるような気がします。

「やさしい心になりなされや。人をたすけなされや。」は、社会のあらゆるレベルで、どんな状況に陥っても治め、かつ活力を生み出していく人間関係の真理。やさしい心は、むごい心の反対、人の難儀を見ていられない、人にたすかってもらいたいという誠の心です。

また、人間は、親神を親と仰ぐ子供、お互いは兄弟姉妹、他人というは更に無い、とも。おせっかいなようでも、困っていないかしらと、声をかけ、手を差し伸べる、広い意味で兄弟姉妹の心でありたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

人生・生活 | 子育て・教育 | 家族 | 心と体 | 環境 | 社会